2016年1月15日金曜日

次回の学習会は1月19日(火曜日)です

 新年、あけましておめでとうございます。TOSMOSは本年も講演会・学習会・読書会などの活動をなお一層活発におこなっていきたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

TOSMOSでは、119日(火曜日)に「読書会」をおこないます。次回の「読書会」の詳細は下記のとおりとなります。
 
「読書会」では、報告者が要約レジュメなどを作成して報告をおこない、その後でテキスト(イェーリング著『権利のための闘争』)の内容をめぐってみんなで議論します。テキストを事前に読んできて頂けるとより深い議論ができるので望ましいですが、テキストを読むことができなかった場合、あるいはテキストを入手することができなかった場合でも参加して頂いて大丈夫ですので、お気軽にご参加ください。皆さんのお越しをお待ちしております。

見学自由で、途中の入退出も可です。参加費は無料です。事前の申し込みは必要ありません。直接、TOSMOSの部室までお越しください。お待ちしております。

TOSMOSの読書会    

日時:119(火)1830分から

場所:キャンパスプラザB312(部室)
 TOSMOSの部室(キャンパスプラザB棟)へのアクセスについては、下記のリンク先の地図を参考にしてください。

テキスト:イェーリング著『権利のための闘争』岩波文庫版(岩波書店刊 村上淳一訳)
 上記のテキストの全体を扱いますので、図書館で借りるか購入するなどして、各自でテキストを入手のうえ、できれば読んできてください。

○当日扱う範囲:岩波文庫版の全範囲(1ページから140ページまで)

○報告者:TOSMOS会員

○内容紹介:
<自己の権利が蹂躙されるならば、その権利の目的物が侵されるだけではなく己れの人格までも脅かされるのである。権利のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。イェーリング(181892)のこうした主張は、時代と国情の相違をこえて今もわれわれの心を打つ>(岩波文庫のカバーの文章より)。

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TOSMOS(現代社会研究会)は、現代社会の様々な問題について、その本質を究明し、解決の道筋を考える東京大学の学術文化系サークルです。社会、経済、国際関係、環境、メディア、文化等のテーマに関して、討論、学習会、読書会、合宿などを通じて現代社会への視野を広げ、見識を深める活動をしています。もし多少でも興味がありましたら、一度わたしたちの活動を見学してみませんか?私たちは常に、現代社会について研究する新しいメンバーを募集しています(TOSMOSはインカレサークルなので、他大学の学生の参加も歓迎です)。
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TOSMOSでは、昨年20151216日に学習会(「経済学入門――主流経済学への批判から考える」)を実施しました。以下、その報告の要約を試みます。

 まず、報告者は、数学的に「精緻」化した新古典派経済学から、いわゆる古典派経済学(ケネー、アダム・スミス、リカード、マルクス)へと、もう一度回帰する必要性を訴えました。そもそも、経済学(「エコノミクス」)の語源である、ギリシャ語の「オイコノミア」は、家計のやりくりを意味していました。その点で、現在流布しているような経済学観、すなわち市場予測をしてマネーゲームにいそしむための学問とは大きく異なるのでしょう。ここでは、古典派など近代以降の経済学は、「社会の再生産を考察する学問」であり、資本主義社会が存続するあり方を探求する学問」であることを確認しておきたいです。

 では、もう一度立ち戻るべき「古典経済学」の特徴とはなんでしょうか。その理論の基礎となる労働価値説や三大階級(資本家階級、地主階級、労働者階級)論とは、階級間の搾取関係という、資本主義経済の矛盾への考察につながっていきます。古典派経済学のもっぱらの関心は、「剰余生産物の増加を通じた一国の富裕化」でした。そこで、報告者は、ウィリアム・ペティや重農主義者のケネーやアダム・スミスやデイビット・リカードの、経済学における貢献を詳しく検証しました。

 しかしながら、他方で今日の状況はどうなっているでしょうか。今日の大学で学ぶ「主流経済学」の地位は、労働価値説を放逐した「限界革命」に立脚した、財の消費にあたって生じる満足度(=「効用」)の増加量によって価値が決まるとする「新古典派経済学」が占めています。特に、レオン・ワルラスによる「貢献」は、「稀少性」「市場」「需給」などの経済現象を、「数式を用いた厳密な純粋科学」として分析するような経済学を打ち立てようと試みた点で特筆すべきでしょう。「市場」でおこなわれる交換関係のなかから「均衡」という調和と見出そうとするワルラスは、「数式という、現実から遊離しそれ自体完結した論理によって記述された、一つの世界観の構築であ」り、「資本主義社会の神学体系の基礎として純粋経済学」を求めたものだと報告者は総括しました。しかしながら、その後、さまざまな形で登場した応用経済学も、「費用」面からの考察が不十分なまま、「(主流経済学という)神学の無謬性を現実で確認するための分野」に甘んじてしまっていると、報告者は批判します。

さらに報告者は、経済学が資本主義社会の「神学」と化してしまう点では、上述のミクロ経済学だけでなく、ケインズ経済学に象徴されるマクロ経済学も同様だとします。ただし、もし評価できる点があるとしたら、「ケインズは再生産の結果が如何にしたら増大するか――ケインズ的に言えばGDPの総量が増加し完全雇用を達成できるか――という古典派経済学(重商主義、重農学派も含む)の関心だけを復活させたこと」にあるとのことです。それでも、「労働価値説を元にした生産過程の探求」という目標を放棄した点では、ミクロ経済学と同罪です。それは、「統計的に算出できる経済変数の操作がGDPの増減にどう作用するかを色々と論じるだけの学」であり、「出来の悪い『政治算術』」であると報告者は批判しました。
 
 そうであるならば、われわれは経済学の学習をいかに進めるべきでしょうか。報告者は、ダイジェスト版の経済学の教科書を使用するのではなく、経済学の不滅の古典(ケネー『経済表』、アダム・スミス『国富論』、マルクス『資本論』、リカード『経済学及び課税の原理』など)を読むことをすすめます。その際には、あらかじめ「自分で正しい経済学を選り分けるフレームワークをもっておくのが望ましい」とアドバイスがなされました。報告者がとくにすすめるのが、マルクスの『剰余価値学説史』を繙くことでした。

 また、古典の読書だけでなく、現代の経済問題も考えたい場合には、インフレ論をおすすめしたいとのこと。なぜならば、現代経済の入口は、通貨と金の切り離しと、国家による通貨の操作にあるからです。たとえば、猪俣津南雄の『金の経済学』は、労働価値説に基礎を置きつつ、金本位制が崩壊し管理通貨制に移行した時期に日常となった不換紙幣が流通していくことの意味を問うており、その点で非常に有意義な研究だとのことです。そこでは、アベノミクスの理論的基礎であるリフレ派の学説もすでに論破されているそうです。
 
たしかに、大学の経済学部に入学した際にまず求められるのが、今回の報告で報告者が指摘した、主流経済学(新古典派経済学)の世界観(資本主義社会の全面的擁護としての「神学」)を無批判に受け入れるかどうかという“踏み絵”を(無意識にせよ)踏むことではないでしょうか。私(飯島)も、「経済学」科目を履修した際に、ある種の「窮屈さ」や「息苦しさ」を感じたことを想起しました。市場経済万能論が幅を利かせるなか、資本主義社会の解剖学としての「経済学」が今後どのような進展を見せるのか、注視していきたいところです。

【文責:飯島】