2015年5月31日日曜日

次回の学習会は6月9日(火曜日)です

 TOSMOSでは6月9日()に学習会をおこないます。テーマは「議院内閣制と三権分立」です。このテーマでTOSMOSの会員が報告を行います。見学自由・参加無料ですので、6月9日()にぜひ、お気軽にお越しください。なお、学習会の詳細は、以下の通りとなります。

日時:2015年6月9日(火曜日)19時00分~21時00分頃まで

場所:キャンパスプラザB312(部室)
※なお、部室(キャンパスプラザB棟)へのアクセスについては、下記のリンク先の地図を参考にしてください。
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_43_j.html

事前の申し込みは必要ありません。直接、会場(部室)までお越しください。

テーマ:「議院内閣制と三権分立」

報告者:TOSMOS会員

※報告者が資料を用意しますので、予備知識なしで参加していただいて大丈夫です。

事前の申し込みは必要ありません。直接、会場(部室)までお越しください。参加費は無料です。

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 TOSMOSは、現代社会の様々な問題について、その本質を究明し、解決の道筋を考える東京大学の学術文化系サークルです。
 国際情勢、国内情勢、政治、経済、科学、生命倫理など、さまざまなテーマに関して、学習会、読書会、合宿などを通じて理解を深める研究活動をしています。もし多少でも興味がありましたら、一度わたしたちの活動を見学してみませんか?TOSMOSでは現代社会について一緒に研究する新入会員を募集しています。
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さて、5月26日のTOSMOSの読書会に参加の皆さん、お疲れ様でした。とくに報告者の方は詳細な報告をありがとうございました。
 
中根千枝氏の著書『タテ社会の人間関係』をテキストに、読書会を前回の5月20日と今回の5月26日とで、2回に分けておこないました。
 
総じて言えば、日本社会の人間関係を「タテ社会」と位置づけ、西欧・中国・インドの「ヨコ社会」と対比させて、日本社会のとくに人間関係における特徴をあぶりだした本書から学ぶべき点は多々あるように思われます。日本社会に「タテ社会」がいかに日本社会の隅々まで浸透しているか。企業家から学術研究者に至るまで、その行動パターンについての個別具体的事例を多く挙げつつ展開する、著者の論調には頷かされる(あるいは、身につまされる)点も多かったです。「いかなる社会でも、その人々の社会生活が大きな支障を来さないように、一定の社会構造に支えられているものであ」り、「社会のあるところ必ず構造があ」り、その構造は抽出可能であるという、著者の学問的信念が本書において論理的一貫性をもちつつ親しみやすい事例を多用しながら開陳・展開されており、「日本論不朽の名著 読まれ続つづけて110万部突破!」という、帯宣伝文句に間違いはありません。その意味で、本書を取り上げた意義は大きいでしょう。

 本書の評価をめぐって、TOSMOSの読書会の場で様々な意見が出されました。たとえば、本書だけを読むかぎり、著者はインドのカースト間の連帯と西欧の階級的連帯とを同一視しているが、両者は質的にまったく異なるのであり、問題ではないかという意見が出されました。

 また、本書の前半で強調される、社会関係を形成する要因としての「場」と、本書の中心概念である「タテ社会」との関係がいまいち不明確ではないか、「資格」ではなく「場」を重視する社会が「タテ社会」を必ずしも形成するわけではないのではないか、という意見も出されました(合わせて言えば、「枠」と「場」との概念上の違いも不明確ではないでしょうか)。

さらに、「タテ社会」の“発生史”にも議論が及びました。著者は江戸時代から「タテ社会」があった日本の伝統とみなす分析をしていますが、明治以降の政府と農村との間で起きた激しい闘争などの社会変動を無視しているのではないか、というわけです。

 そして、著者は、日本のリーダーシップのあり様を精緻に摘出しながら、天皇(制)の問題にまったく触れていない(回避している)のはなぜか、という疑問も出されました。すなわち、「日本的リーダーは、どんなに能力があっても、他の社会のリーダーのように、自由に自己の集団成員を動かして、自己のプラン通りに、他の成員の強い意向をおさえてまでことを運ぶことはできない」(140ページ)という、本書が描く日本のリーダーの姿は、天皇制における、ある側面に肉薄しているように思われるだけに残念だ、という意見でした。

さらにまた、著者が日本社会を「単一社会」と規定している点に関して、植民地を放棄した後に形成された、極めて戦後的な、「島国日本」というイメージに(ある種無自覚に)依拠しているのではないかという意見も出されました。

ところで、本書が出版された一九六七年の日本は、高度経済成長がほぼ完了し、美濃部東京都知事が誕生した時期にありました。わたし(=飯島)は当時を知らない人間であり正確性を欠くことを恐れずに言えば、敗戦後の戦後日本の歩みが曲がり角に来ていたわけで、その時期に本書が出版された意味は大きかったと想像します。すなわち、敗戦後、戦後民主主義の旗のもと、西欧社会を手本にハード面での近代化に邁進してきた日本ですが、その「国是」がある程度達成されたうえで、そのことに対するある種の疑念が生じつつあるという、「時代」の曲がり角にあって、「人間関係」というソフト面での「異質性」に着目した本書は、その戦後民主主義に対して一石を投じる役割をはたすことになったのではないでしょうか。本書が多くの人に長く読み継がれていった理由もそこにあったように思われます。

このように、本書が展開する「タテ社会」に対する評価は微妙なものがありますが、逆に「『タテ社会』でよいではないか」と開き直り、「タテ社会」万歳を唱えたのが、八〇年代に席巻した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の議論だったようにも思われます。しかしながら、九〇年代の平成不況以降の「失われた二〇年」を経た日本社会は、著者が分析するような「タテ社会」ではたしてあり続けているのでしょうか。「タテ社会」の特徴である、年功序列制や終身雇用制が大きく崩れて、非正規雇用が労働者の雇用形態として「定着」しつつある現在、「タテ社会」の組織を成り立たせていた根本的な“保障”が機能しなくなっているのではないでしょうか。

「タテ社会」が、良し悪しを別にして、それなりに担ってきた「社会的な包摂」が文字通り麻痺・変容しつつある今、日本社会はどこに向かおうとしているのかを、本書を契機に考えていく必要がありそうです。

【文責:飯島】