2013年10月26日土曜日

次回の学習会は10月30日(水曜日)18時30分からです。


1023日開催の学習会(「望ましい歴史教育の在り方とは〜歴史教科書問題を通じて〜」)に参加された皆さん、お疲れ様でした。とくに、報告者の方、素晴らしい報告をありがとうございました。大変勉強になりました。

次回以降も、駒場祭にむけて、教育をテーマに学習会を続けていきます。次回は下記のとおりです。

〇日時:10月30日()18:30~

〇場所:キャンパスプラザB312(部室)

〇学習会のテーマ:教育について

〇参加費:無料

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 新入会員を募集しております。一年生の方や、初めてこのブログを読んで関心を持った方など、ご自由にご参加ください。当サークルの日頃の活動の雰囲気を知りたいという方の飛び入り参加も大歓迎です。事前の登録等も必要ありません。途中入退出も自由です。お気軽に、部室にお越しください。なお、部室の場所がわからない場合には現社研のホームページ上にある連絡先にメールをしていただきますよう、お願いします。
 次回(10月30日)は発表形式をとりますので、文献を事前に読んでくる必要もなく、予備知識なしでも大丈夫です。

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さて、1023日に実施された学習会の内容について軽く触れたいと思います(間違いなどありましたら、次回の学習会で教えてください)。「望ましい歴史教育の在り方とは〜歴史教科書問題を通じて〜」と題した報告がなされました。報告者は、「もし自分が歴史教科書をつくる(歴史教育を行う)としたら、どうするのか」という問題意識のもとに、現行の歴史教育・歴史教科書の有り様・課題を浮き彫りにしていくという内容でした。さらに言えば、議論の出発点として、ふたつのアプローチを報告者は提示します。すなわち、歴史教育の最終目標として、「歴史を学ぶことで『現代』を理解し、ひいては『将来』への幅広い視野を涵養する」(アプローチA)と、「自国の歴史や伝統・文化を学ぶことで、愛国心を養い、自国を誇り愛する国民を作り出す」(アプローチB)という、二つのアプローチの峻別です。報告者はこのふたつのアプローチを考量しつつ、アプローチAをより望ましいものとして選択したうえで、上記の歴史教育の最終目的を達成するために、歴史教科書のより望ましい在り方に必須な四つの要素を提示します。すなわち、

①近代史に重点を置いた構成、

②世界史の中の日本史という視点、

③論争の多い事実であっても、その事実が「現代」を理解するために重要・必要不可欠なものであれば、必ず記載、

④その際に、論争のある事実を記載するときには、論争の存在を併記(特定の立場に依存するべきではない)、

  以上です。

 報告者にとって歴史教育の最大の目標は「現代を理解すること」にあります。そのため、近現代史が古代史や中世史などと比較してはるかに重要性が増します。また、現代社会は地球規模でのボーダレス化(世界の一体化)が加速している以上、一国内に閉塞する歴史教育は存立しえません。それが「世界史の中の日本史という視点」が欠かせない理由です(報告者の提案は、ウォーラーステインの世界システム論とも共振する側面があるのかもしれません)。

 さらに、そのような「世界史的視点」を習得させるために、歴史教育では「日本の歴史的行為について客観的に評価する基準」を学習者に提供する必要があると、報告者は指摘します。「世界史的視点」を準拠点としつつ、日本の近現代史を再構成する作業ができることが目標となります。具体的にいえば、「日本の侵略行為をどう評価するべきか?」という思考判断を学習者ができるような歴史的素養(視点)を身につけることです。日本の帝国主義を理解するためには、欧米列強の帝国主義の席巻とそれに対抗するかたちで第一次大戦後に登場した民族自決の流れ、そしてファシズムの成立など、世界史的な動向に目を向ける必要があります。要するに、日本の帝国主義の動向を同時代の世界史的動向のなかに位置づけることで、日本の帝国主義の特徴をより的確に把握することが可能となるわけです。

 しかし、現行の日本の歴史教育の現場では、古代・中世史により重点が置かれることの必然として近現代史の教育がより疎かになるという弊害が生じます。さらに、中学(高校)の中等教育が「日本史」というかたちで日本国内だけの歴史教育に閉塞してしまっているため、結果として「戦前の日本は絶対的な悪で、イギリス・アメリカは絶対的な正義」という、歴史的事実とは異なる見解を身につく可能性がある、というわけです。近現代の世界史的知識の習得が望まれる所以です。

 たとえば、対華21か条要求も、イギリスのエジプト保護国化と同様の、帝国主義の一内容であるという把握の仕方、あるいは、3・1独立運動も第一次世界大戦後の民族自決の現れであるという理解の仕方が、現行の歴史教育では疎かになっているというわけです。

 ①②の要素についての説明は以上です。さらに、報告者は上記③④の要素も重視します。すなわち、歴史学において論争となっている「事実」についても、論争になっている点を明記しつつ、教科書に記載されるべきだ、というわけです。たとえば、731部隊、従軍慰安婦、南京事件などです。現代社会を理解するための手掛かりとなるのは、「客観的な史実」であって、特定の主観的な主義主張では決してないのだからです。

 今回の報告者の主張の特徴として、「歴史教育は歴史的事実の列挙にできるだけ力を注ぐべきであり、特定の主観的な主義主張をできるだけ排する」という点があると思われます。その意味で、「愛国心」を修得することや「自国を誇り愛する国民」を創出することをめざす「歴史教育」(アプローチB)は、社会科学の一分野である歴史学の本来的役割からの大きな逸脱であるばかりか、「愛国心」云々は歴史学とは本来何の関係もない概念であり、そのような概念を歴史教育の現場に持ち込むことは無用な混乱を招くだけでしょう。だから、藤岡信勝東大教授が唱える「自由主義史観」に基づくとされる「つくる会系教科書」は、歴史教育に主観を持ち込むものだとされ、史実は愛国心涵養の手段へと落ち込むため、史実の客観性への追究が疎かになるなど、特定の価値観を学習者に押し付けることになり、報告者にとって批判の対象となります。

 以上、報告者の報告をごくごく簡単にまとめてみました。その他、教科書検定が近現代を狙い撃ちしている問題点など多岐にわたり報告者は論じましたが、スペースの都合上、割愛します。

 さて、このブログの執筆者である私(飯島)は、報告者の見解に約九割は賛同します。「世界史のなかの日本史」という視点の涵養には多いに賛成です。ただ、報告のなかで報告者が、「つくる会系教科書」を支持する人間がしばしば用いる「自虐史観」という用語をある意味無批判に採用してしまっているのではないか、その点に違和感を覚えました。なにをもって「自虐史観」と言えるのかがわかりませんでした(なんとなく感覚としては理解できますが)。たとえば、満州事変から帝国・日本の敗戦までのアジア太平洋15年戦争で日本の犯罪行為を事細かに教えた場合、それは「自虐史観」に傾斜しているとなるでしょうか。それだけをもって、学習者が、世界は「善」の戦勝国と「悪」の敗戦国に二分され、日本は絶対的な「悪」の側に属する以上、日本は「何よりだめな日本」と「自虐」的に受け止めてしまう、とはどうしても私には思えないのです(むしろ、私などは、徹底的に「自虐」に落ち込む経験を積む作業を一生のうち一度は経験しておけ! と個人的には言いたくなりますが〔エラそーなこと書きました 笑〕)。そもそも、歴史教育も科学としての歴史学の一員であり、歴史的事象に「自虐」云々は関係がないのです。

 また、細かい点にこだわり過ぎかもしれまんせんが、「歴史教育は歴史的事実の列挙にできるだけ力を注ぐべき」という点に私は半分賛成・半分反対です。史実の列挙という作業自体がある一定の価値観なくしては不可能だからです。まったく没価値的な相対主義に陥ることも好ましくないでしょうし、それはありえないと私は考えます。だから、価値観といかに向き合うのか。やっかいな問題ですが、避けては通れない問題だと思います。

 では価値判断の基準をどこに求めるのか、という問題が生じます。その点に関連して、報告者は歴史教育のなかで「現代」の理解を強調していますが、その「現代」を構成する重要な要素のひとつとして、日本国憲法の精神を私は取り上げたいと思います。報告者も賛同してくれると思いますが、この憲法はアジアで2000万人、日本で310万人の非業、無念の死(もちろん、欧米諸国にもあまりにも多くの戦死者を生み出したわけですが)のなかから生まれたのであり、日本国憲法の根本原理である、平和主義・国民主権・基本的人権・国際協調主義などは、ある日突然日本国内に生まれたのではなく、悠久なる人類の歴史のなかから積み上げられてきた結晶体であり、世界史的レベルでの関連性が持つ原理であることは論を俟たないでしょう。「歴史をなぜ教えるのか」という理由は様々でしょうが、そのなかのひとつの(あるいは最高の)目的は、これらの原理の(世界史的な範疇としての)成立史を教えることにあるのではないでしょうか。その場合、これらの原理の背景となる価値観を自然と「押し付ける」ことなることは避けられないように思われます。平和教育の一方的な押し付けは避けねばなりませんが、かといって、それらの価値観を教える作業を「自虐」だとして放棄してしまうのも、考えものだと言えます(「自虐史観」と糾弾する人は、日本国憲法の傘の下でかろうじて他者を「自虐」だと攻撃できている存在に過ぎないのではないかと思われます)。だから、「憲法愛国主義」と批判されるかもしれませんが、「歴史教育でおこなうべきこととは何か?」と問われれば、日本国憲法の原理を教えることだとあえて私は答えたいです。

 ところで、「(社会)科学としての歴史学」だと私が先述したことに関連して、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの言葉を取りあげたいと思います。ウェーバーの言いたいことを私は全部精確に理解しているわけではなく、誤解もあるかと思いますが、歴史学と価値観との関係を考えるうえで参考になればと思い、引用します。

 「われわれの行為を規定し、われわれの生活に意味と意義とを与える、あの「人格」内奥の要素、すなわち最高かつ究極の価値判断が、まさにそれゆえ、われわれにとってなにか「客観的に」価値あるものと感得される、ということも確かである。じっさい、われわれが、そうした最高かつ究極の価値判断を主張できるのも、もっぱらそれが、われわれにとって妥当するもの、われわれの最高の生活価値から流れてくるもの、として現れ、そのようにして生活上の数々の抵抗と闘うなかで展開されるからこそ、である。」(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫版pp3637より)

 「価値自由」を追究したウェーバーですが、同時に没価値にも警鐘を鳴らしていたことにも目を配る必要がありそうです。報告者が報告したとおり、愛国心や「皇国史観」など特定のイデオロギーを教育現場に持ち込むことは避けねばなりません。愛国心の涵養云々は個人の勝手であり、歴史教育には関係がありません(あえて誤解を怖れずに言えば、愛国心は個々人の内面世界の聖なる領域から発せられる情念のひとつであって、自由主義史観派が主張するような、歴史教育でその情念を改変・操作できると考えることぐらい、愛国心を侮辱した話はありません。と同時に、歴史教育をも彼らのいう「愛国心」の増長のための道具として扱っている点で、歴史教育をも馬鹿にしていることにはならないでしょうか)。しかし、繰り返しになりますが、かといって、史実の列挙にのみに没頭するのも、どの史実を教えるかという選択自体がある一定の価値観なくしては不可能であることを鑑みて、あまり望ましい態度とはいえません。そこで、私は、先述の日本国憲法の普遍的(それは「世界史的」と言い換えてもよいかもしれませんが)原理に立脚した歴史教育にこそ価値判断の隘路から抜け出す術(すべ)を求めることが、「よりましである」という意味でも望ましいと考えます。

 最後に、参考として、20世紀前半期のロシアの教育家クループスカヤが児童に歴史を教える理由を述べた箇所を引用して、本稿を締めくくりたいと思います。ちなみに、私はクループスカヤの以下の説明にほぼ完全に同意します。

 「君は新しい生活を築きたいと思っているね。そのためには、昔、人びとがどのように自分の生活を築いたか、その人びとのあいだにどのような、そして何のための闘いが行われたかを君は知る必要がある。そして、君は歴史を学ぶことによって何をしてはならないかを知るようになり、その結果、何をしなければならないかが、もっともよく分かるようになるだろう。」(『青少年の教育』より)
 
 
 長々と乱文を書きましたが、最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。

【文責:飯島】